Søren Kierkegaard「不安の槪念」1884
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原罪の前提としての不安
1.
共感的反感
不安を介して責め有る者と成る人閒は實は無垢なのであり、その當人を捉へたのは當の自己自身ではなく、不安と云ふ (彼にとって) 見知らぬ力だったのであり、彼はこの力を愛してゐたのではなく、寧ろそれに不安を感じてゐた程だからである
2.
反感的共感
それにしても、今言ふ當の人閒は矢張り責め有る者である。と云ふのも、彼は不安の中に溺れ乍ら、結局その不安を恐れつつも、尚それを愛してゐたからである
原罪の結果としての不安
1.
罪に對する不安が罪を生み出す
個體は罪に對する不安に依って罪を生む
2.
個體は責め有る者と成る (事に對する) 不安に依ってではなくて、責め有る者と見做される事に依る不安の中で責め有る者と成る
罪意識を缺く罪の結果としての不安
罪の不安、或いは個體に於ける罪の結果としての不安
信仰に依る救いの手としての不安
Søren Kierkegaard「死に至る病」1920
絕望
絕望して、自己を持ってゐる事を自覺してゐない場合 (非本來的な絕望)
絕望して、自己自身であらうと欲しない場合
絕望して、自己自身であらうと欲する場合
意識されてゐるかゐないかと云ふ點を反省せずに考察された場合の絕望。從ってここでは綜合の諸契機のみが反省される
有限性 / 無限性
可能性 / 必然性
意識と云ふ規定の下に見られた絕望
自分が絕望である事を知らないでゐる絕望。或いは、自分が自己と云ふものを、永遠な自己 (實存) と云ふものを、持ってゐると云ふ事に就いての絕望的な無知 自分が絕望である事を自覺してゐる絕望。從って、この絕望は、或る永遠なるものを內に含む自己と云ふものを自分が持ってゐる事を自覺してをり、そこで、絕望して自己自身であらうと欲しないか、それとも、絕望して自己自身であらうと欲するか、そのいずれかである
絕望して、自己自身であらうと欲しない場合、弱さの絕望
地上的なものに就いての、或いは、地上的な或ものに就いての絕望
永遠なるものに就いての、或いは、自己自身に就いての絕望
絕望して、自己自身であらうと欲する絕望、反抗
自己意識の諸段階 (神の前に、と云ふ規定)
人閒的な自己→神に面する自己
罪の反對は信仰なのである
罪の定義が躓きの可能性を藏してゐると云ふ事、躓きに就いての一般的な注意 罪の繼續
自己の罪に就いて絕望する罪
キリスト敎を肯定式的に廢棄し、それを虛僞であると說く罪